作詞家 玄庵ストーリー
長崎県に生まれる、幼い頃の玄少年は大人しく不思議な少年だった。道端に咲いている花を眺めては長い時間座っていたり、雨の音を耳を澄ませて聴いていたり、音のするもの全てに興味を示していた。お地蔵さんが大好きで母親と買い物に行くと必ず手を合わせ暫くお話をしていた。歩き出すことや話をすることもかなり遅く両親はずいぶん心配していたそうである。
初めて描いた絵は龍だった、縁側に座り一日中でも絵を描いている、手のかからない子どもだった。そのくせ機械いじりが大好きで、家中の電気製品や機械類を分解しては部品を余らせては、親を困らせていた。読書も好きで小学校時代にはシートン動物記やファーブル昆虫記などを愛読していた。ときおりラジオ番組でのラジオドラマは特に好きで将来はアナウンサーになろうと思っていた。
音楽との出会いは自宅にあった45回転のレイチャールズの「What I say」だった。邦楽しかなかった自宅のレコード入れに洋楽はそれしかなく興味本位で針を落とす。それから玄少年の人生は大きく舵を切ることになった。中学校時代にはその頃は珍しかったエレキバンドを組み 卒業の日に演奏をした。そして社会人となりコンテストで入賞、東京に出ることとなった。
音楽だけでは食うこともままならなく、大手音響会社に就職した。多くのメジャーアーティストの音楽を現場で聴いて本物に触れていった。そして数年が経ち、少年のころに音楽の洗礼を受けた「レイチャールズ」のジャパンコンサートツアーのサウンドエンジニアとしてデビューすることとなった。憧れのR&Bの神さまの音響を担当することになり感動という言葉が薄っぺらに感じるほど心が震えた。
その後多くのメジャーアーティストや歴史的大型イベントのサウンドプランやメインオペレーターとして活動をした。そして数多い経験の中で次第に構成・演出などの世界に足を踏み入れることとなった。それからは歌詞を書き、脚本を書き、コンサートを企画した。現在は筝曲家「伊藤霞」とともに和の世界を大事にしたコンサートを開催しようと心がけている。